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『松浦丹後守政はもとは当家の一族なりしが、いかなる故にか、互いに確執におよび、相神浦・有田・今福・黒島を領め、大智庵に城郭を構えておわしける』
この文は当地の戦国時代の様子を書き記した「印山記」の冒頭の部分です。
「大智庵城址」は、佐世保工業高校の正門前から高台に上り詰めたところにあり、現在は公園として立派に整備されております。当時の石垣や空堀の跡などはほとんど壊されてしまいましたが、周辺には、「城山」「大門」「城之口」など、城に関連した小字が残っています。
平戸の松浦史料博物館には当時の絵図面が残っており、天然の要害を利用した堅城であったことがわかります。
「松浦丹後守政」は宗家松浦氏(松浦氏の本家)の当主であり、大智庵城に本拠をおき、相浦谷から国見山を越え、西有田、さらに松浦市今福方面を治め、平戸松浦氏に対抗する一大勢力でした。
時は戦国時代、領地の拡大を目指す平戸松浦氏との間に軋轢が生じ、度々戦乱が起こります。
結局、大智庵城は明応七年(一四九八)に平戸の松浦弘定に攻められ落城、政は自害しました。
のちに政の子「松浦丹後守親」(幼名「幸松丸」)が家を再興し、再び平戸松浦と激しく争うことになりますが、実は「平戸が相浦を攻めたときに初めて鉄砲が使用された」ともいわれているのです。
種子島に鉄砲が伝来したのは天文十二年(一五三四)のことですが、それより前の話になります。当時、倭寇の頭目「王直」が平戸に居を構えて海外貿易をしていたことを考えれば、この話もあながちに否定はできないようです。
戦国時代の終わりのころに、宗家松浦は平戸松浦の軍門に下り、この地方は平戸の幕藩体制の中に組み込まれ、幕末を迎えることとなったのでした。
記 澤 正明
(キャプション)
宝篋印塔の墓碑。上段左側が松浦丹後守政の墓。
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