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鎌倉時代から室町時代にかけて、大村湾を中心とした佐世保、東・西彼杵郡・大村・長崎方面は九条家の荘園「彼杵庄」でした。後に九条家の菩提寺である東福寺の荘園となりましたが、その時期の記録が残っており領有の様子を垣間見ることができます。
当時、荘園は多数の小領主により分割統治されており、佐世保周辺の領主には、早岐蔵人入道・日宇小次郎・宮村諸次郎・針尾兵衛太郎など地名を氏とした人達の名前が見えます。その一人に『差布源三郎』とあり、これは佐世保氏の初見とされております。鎌倉時代の末期、正中二年(一三二五)文書です。
その後、南北朝の時代には彼杵庄の国人三十二名が連帯して足利方に忠誠を誓った正平十七年九月(一三六二)の「彼杵庄一揆連判状」に『佐世保源三郎源清』と署名があります。これで佐世保を氏とした国人の存在がはっきりします。一字諱からみて松浦党の一族に違いありません。
中世には「佐世保」は日宇村の一部でした。船便では崎辺と俵ヶ浦半島の距離は近く、今日も日宇村統治の名残りを止めております。
佐世保氏が根拠として城を構えたのは赤崎・庵の浦であり、山城の跡が残っております。松浦党一揆契諾書の中に肩書きとして『させほ』『させほのいまふく』とありますが、これは佐世保氏であると思われます。
次に『佐世保氏』が歴史に登場するのは戦国時代の『佐世保諫』です。この人は大智庵落城で有名な松浦丹後守政の弟であり、佐世保の領主であったようです。
佐世保の地名の由来も諸説があり、はっきりしません。筆者は平安時代に松浦氏の配下である『佐世保氏』が松浦市の御厨より、当地に移住して来て、その領地を佐世保と呼ぶようになったと推測しております。御厨には『佐世保田代』『佐世保崎』の小字地名が残っております。
記 澤 正明
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