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佐世保の戦国史を彩る二人の武将、赤崎伊豫守と遠藤但馬守は、蛇島にまつわる白縫姫伝説の主人公として語られますが、史実は少し違っております。
赤崎伊豫守が当地の歴史に登場するのは、平戸の松浦隆信(道可)が相神浦にあった宗家松浦の飯盛城を攻めた永禄六年(一五六三)の戦いの時です。
籠手田左衛門など平戸の軍勢と共に早岐甚助・赤崎伊豫(佐世保領主)・八並舎人(日宇領主)・針尾三郎左衛門(針尾領主)などが、平戸方として出陣したと壷陽録は記しております。
この戦いは平戸方の勝利で、宗家松浦は平戸に併呑されてしまいます。
元亀三年(一五七二)、佐世保の支配をまかされていた遠藤但馬守が、佐賀の竜造寺に内通したとして謀殺される事件が起こっております。
印山記は『遠藤いかなるわけで魔心が生じたのであろうか、竜造寺へ内通するの逆意が起きた。遠藤の女婿の赤崎伊豫はこのことを聞いて、密かに遠藤に諫めた。しかし、思いこんだ逆心を止めることはできなかった。遠藤に属すれば、主君に背く不義をおかすことになると思い、このことを平戸方に通告した。但馬守親子は悉く討ち取られた』と記しております。
遠藤但馬守は善政をしいた立派な領主であったようで、領民は但馬を神として祀っており、一方の赤崎伊豫守は、岳父を平戸方に売ったとして人気を落とした様子が記録に見えます。
赤崎氏は佐世保の地侍で、代々伊豫守を名乗っていたようです。居城は赤崎にありました。後に中通りに移り、老年になって小川内に隠棲、そこで没しました。墓も小川内にありましたが、近年西方寺に移されております。
西方寺は赤崎伊豫守の菩提寺であり、西方寺は長禄二年(一四五八)赤崎伊豫守が開山したとされております。赤崎にあった『皈一庵』が、西方寺の前身です。
同じように『八幡神社』が赤崎岳より佐世保の中心地に遷座されており、赤崎氏の居館の移動と関連があると思われます。
記 澤 正明
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