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相浦の愛宕山にあった飯盛城の最後の城主は『松浦丹後守定』です。 父は平戸の『隆信(たかのぶ)』の三男で宗家松浦の跡目を継いだ『親(ちかし)』、母は武雄の塚崎の城主『後藤貴明(たかあき)』の女(むすめ)、元亀二年(一五七一)に生まれています。わずか四歳の時に父は不慮の死をとげ、跡を継ぐことになりますが、後見役は平戸の祖父『隆信』、伯父『鎮信(しげのぶ)』でした。
天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は薩摩の島津義久を攻めました。この戦いは九州征伐とも云われます。このとき十六歳になった定も平戸の鎮信旗下の将として出兵しております。島津氏の降伏で戦いは終わり、秀吉は福岡の箱崎で九州各地の大名に所領の安堵(あんど)をしております。
戦に勲功のあった鎮信に秀吉は加増を申し出しましたが、鎮信は『志佐や相神浦は攻め取った土地であり、この土地を平戸の領地の中に加えてもらい、今後永代国替なしを約束してもらえば、ほかに領地は要りません』と述べています。
宗家松浦の消滅と、平戸六万三千石の基礎がここに定まったのです。この時『定』は平戸が差し出した人質として大阪に上がり、泉州、堺(さかい)で三年を暮らすことになります。
九州征伐で島津氏に味方し秀吉に刃向かった武将に、筑前の秋月種実(たねざね)があります。戦いに敗れた種実は名物の肩衝(かたつき)茶入『楢柴(ならしば)』を秀吉に献上し赦されました。この時種実は人質として女(むすめ)を秀吉に差し出し、大阪に上らせております。
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