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宗家松浦十六代「丹後守 親」は当時飯盛山と呼ばれていた相浦の愛宕山に城を構えていました。『高きこと雲にそびえ、後ろは古木陰をかさね、東は岩石、麓は大河・』とその堅城ぶりをが記録にあります。
平戸の松浦隆信(道可)は天文十一年(一五四二)と永禄六年(一五六三)に飯盛城を攻めております。
天文の戦いは宗家方の勝利であり、史書は『前代未聞の宗家方の大勝利』と記しております。永禄の城攻めは三年に及びましたが、武力ではついに落ちず、平戸方は兵糧攻めにしました。
『夜討強盗をさせ、通路を塞ぎ、田を刈り、乱暴などさせられければ、相神浦の侍・民、飢におよび死を待つ』と印山記は記しております。この様子をみた丹後守親は和睦を決意することになります。
丹後守親の室「多美野」は松浦隆信の伯母であり、その縁を頼り、講和の仲介役を果たしたのが、「遠藤但馬守」であったとされています。
遠藤氏は千葉氏の流れで、平戸の大川原に本拠地がありました。
平戸の領地となった佐世保方面の支配を任されたのは「遠藤但馬守」でした。
元亀三年(一五七二)、但馬守が竜造寺氏に内通したとして誅殺される事件が起きております。その内通の噂を平戸方に通報したのが但馬守の女婿「赤崎伊豫守」です。
但馬守は飯盛城に呼び出され、途中でだまし討ちにされます。竹辺町に「うたれがはい」と呼ばれる坂道がありますが、そこが討ち死にした場所であると言い継がれております。
その後、『夜中に頻りに轡の音がする。但馬守が欺かれて討ち取られた遺恨であろう』として、里人は山の上に但馬を神として祀りました。但馬越の但馬神社がそれです。
但馬守は領民に慕われた立派な領主であったに違いありません。今も但馬神社は地元の人々によって大切にお祀りが続けられております。
武士の名は残りにけり野に山に
かばねは朽ちて草はむすとも
但馬守の辞世といわれております。
記 澤 正明
(キャプション)
今も大切に祀られている但馬神社 |