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永正十二年(一五一五)に上松浦随一の武将である岸岳城主『波多下野守(しもつけのかみ)興(こう)』の女(むすめ)『多見野(たみの)』を娶(めと)っておりますが、その妹が平戸の『興信(おきのぶ)』の後妻になり、暫くは平穏な時代が続くことになります。
当時母の弟『少弐 資元(すけもと)』は、肥前国(ひぜんのくに)守護であり、その斡旋により室町幕府は平戸方に相神浦・佐世保・有田・今福・鷹島の旧領を宗家に返すよう命じます。享禄三年(一五三0)のことです。
その頃、親(ちかし)は資元の子『鎮(しげる)』を養子に迎え、家の安泰を図っております。
天然の要害の地である飯盛山に城を造ったのは、天文四年(一五三五)のこととされており、宿敵平戸に備えます。 興信が卒し、その子『隆信(たかのぶ)』が後を継いだ天文十一年(一五四二)、平戸の軍勢が飯盛城を攻めました。しかし、飯盛城は容易に落ちず、かえって平戸の軍勢が大きな痛手を被っております。
このころより永禄六年(一五六三)にかけての約二十年間が、宗家松浦の全盛時代であったと考えられます。この時期に家の安泰を祈って奉納した仏像や石造物が数多く残っておりますが、造りは立派なものばかりで、権勢が偲ばれます。
◆記 [澤 正明]
◆写真説明 [親(ちかし)の居城「飯盛城」があった愛宕(あたご)山]
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