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2000年夏号

松浦丹後守 親(まつうらたんごのかみ ちかし)

 当地の戦国時代を代表する武将は宗家(そうけ)松浦十六代『松浦丹後守 親』です。

 父は松浦宗家の当主『丹後守 政(まさ)』、母は豊前・筑前・肥前と壱岐・対馬の守護を兼ねて三前二島の太守と崇(あが)められた『少弐 政資(しょうに まさすけ)』の女(むすめ)『南殿(みなみどの)』。  幼名を『幸松丸(こうまつまる)』、長じて法号を『宗金(そうきん)』と称しております。

 明応七年(一四九八)、平戸の『弘定(ひろさだ)』は宗家の居城『大智庵城(だいちあんじょう)』を攻めました。幸松丸の祖父『定(さだむ)』が有馬氏とともに平戸を攻めた『箕坪城(みのつぼじょう)の戦』の報復であったとされております。

 政は討死を遂げますが、幸松丸は母と共に助け出されて平戸に幽閉されます。歳はわずか一歳でした。  後に旧臣により助け出され有田の『唐船城(とうせんじょう)』で成長し、相神浦(あいこのうら)に帰ってきたのは十五歳の頃であるとされております。

 永正十二年(一五一五)に上松浦随一の武将である岸岳城主『波多下野守(しもつけのかみ)興(こう)』の女(むすめ)『多見野(たみの)』を娶(めと)っておりますが、その妹が平戸の『興信(おきのぶ)』の後妻になり、暫くは平穏な時代が続くことになります。

 当時母の弟『少弐 資元(すけもと)』は、肥前国(ひぜんのくに)守護であり、その斡旋により室町幕府は平戸方に相神浦・佐世保・有田・今福・鷹島の旧領を宗家に返すよう命じます。享禄三年(一五三0)のことです。  その頃、親(ちかし)は資元の子『鎮(しげる)』を養子に迎え、家の安泰を図っております。

 天然の要害の地である飯盛山に城を造ったのは、天文四年(一五三五)のこととされており、宿敵平戸に備えます。  興信が卒し、その子『隆信(たかのぶ)』が後を継いだ天文十一年(一五四二)、平戸の軍勢が飯盛城を攻めました。しかし、飯盛城は容易に落ちず、かえって平戸の軍勢が大きな痛手を被っております。

 このころより永禄六年(一五六三)にかけての約二十年間が、宗家松浦の全盛時代であったと考えられます。この時期に家の安泰を祈って奉納した仏像や石造物が数多く残っておりますが、造りは立派なものばかりで、権勢が偲ばれます。

◆記 [澤 正明]
◆写真説明 [親(ちかし)の居城「飯盛城」があった愛宕(あたご)山]


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