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江戸時代、長崎は海外に開いた唯一の窓でした。長崎と小倉の間の長崎街道は異国の文化に触れるために多くの人々が行き来しております。平戸街道は彼杵宿(そのぎじゅく)で長崎街道より分岐し、田平町日ノ
浦まで約十五里(六〇キロメートル)の道程です。
街道は特別の所以外はなるべく直線コースになるよう設定してあり、特に佐世保周辺は山坂が険しく難所でした。
ここを歩いた『吉田松陰』は『西遊日記』に
『十三日、雨。早岐より佐世保浦へ二里、浦より中里へ二里、中里より江迎へ四里、共に八里。皆(一里は)五十町と云う。夜に入り江迎に着し、庄屋の家に投宿す。是の日の艱難(かんなん)実に遺忘(いぼう)すべからず。一には八里の間、皆山坂険阻(けんそ)の地なり。二には雨によりて途中傘を買い煩(わずらい)を添う』
と記しており、険しい山坂で難渋している様子が鮮明に描かれております。嘉永三年(一八五〇)九月のことです。
松蔭は文政十三年八月(一八三〇)、杉百合之助の次男として生まれました。のちに萩藩の山鹿流兵学を講ずる吉田家の養子となり、十九歳のときには山鹿流軍学の師範となっております。二十一歳になった松蔭は平戸遊学を願い出ておりますが、目的は山鹿流兵学の本宗(ほんそう)である平戸の兵学を履修することでした。
平戸では山鹿万介・葉山佐内に家学の教授をうけ、滞在した五十余日の間に読破した書物は八十冊をこえております。
平戸遊学より帰ってのち藩主の参勤交代に随行し、松蔭は江戸で佐久間象山に洋学を学びます。象山の影響で『海外に脱出して進んだ文明の知識を求める』との志で下田に停泊の米艦に密航を求めて失敗、捕らえられ、江戸から萩の野山獄に送られます。出獄を許され謹慎中に『松下村塾』を開きますが、この塾から高杉晋作をはじめ数多の人材が輩出したことはよく知られております。松蔭の願いは『自分に代わって思想し行動する時代の変革者を育て上げる』ことにあり、その目的は『若い層の人造り、ひいては強健な国造りへの道』でした。それは明治維新に実を結ぶことになります。松蔭は安政の大獄に連座して刑死しました。
享年三十歳、安政六年のことです。
■澤 正明
■写真説明:大村と平戸の藩境だった舳ノ峰(へのみね)にあった標石(八並家保管)。
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