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陶工「今村家」
佐世保市の伝統工芸である三川内焼は、純白の磁肌に呉須絵の染付、気品のある製品は藩窯の伝統を今日も受け継いでおります。
三川内焼の起源は各資料によると、 「豊臣秀吉の文禄・慶長の役に従った松浦鐘信が帰国に当たって朝鮮の熊川の陶工『巨関』などを連れ帰った。巨関に今村の姓を与え平戸の中野に窯を開かせた。その子三之丞は良い陶土を求め各地を回り、その後三川内に開窯した」とされております。
その時期の様子を書き残したものに『今村正芳旧記』があります。三川内焼に関する文書としては最古のものです。
この旧記は、寛政三年(一七九一)六月、今村家六代の弥次兵衛(正芳)が平戸藩に差し出した書付であり、それは、松浦家の正史『家世伝』作成のために求められたものでした。「この書付略文にして法印公御伝慶長三年十二月に入る 壬子三月九日」と朱書してあります。
その旧記によれば、平戸を出た三之丞は有田の南川原に行っております。そのころ南川原には、竹原五郎七が来て窯を開いておりました。五郎七は朝鮮の熊川で生まれ、椎ノ峰に居た陶工です。キリシタンであったと云われております。南川原の柿右衛門窯の祖は、五郎七に学んだ中の一人です。
三之丞は五郎七の弟子となりました。白磁の製法を模索しましたが、五郎七は、釉薬の調合の秘法は、決して明かすことはありませんでした。苦心の末、ついに土灰二品の調合の具合を盗み取り、白磁焼成に成功しております。
その後、三之丞は波佐見の三股で窯を開いておりましたが、呼び返され三川内に窯を開きました。平戸藩御用窯の誕生です。慶安三年(一六五〇)の頃と考えられます。
昨年、平戸藩御用窯跡の調査が佐世保史談会により実施されましたが、慶安年間ごろの赤絵を施した磁気が発掘されており、それを裏付けることとなりました。
三川内焼を大成させたのは三之丞の子『弥次兵衛』です。寛文二年(一六六二)に天草陶石を発見し、江上の三ツ岳の網代土を調合して、素晴らしい白磁を焼成しました。後に藩主より『如猿』の号を賜り、陶祖神社に神として祭られている人です。
澤 正明/写真説明 如猿が祭られている陶祖神社
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