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戦国時代の末、北波多にある岸岳(きしだけ)の周辺には『岸岳七窯』と呼ばれる窯があり、『古唐津』が焼かれていました。この地の領主であった『波多三河守(みかわのかみ)』は、豊臣秀吉が引き起こした文禄の役に鍋島直茂の旗下(きか)として朝鮮に出陣しましたが、秀吉の怒りにふれ文禄三年(一五九四)所領は没収されました。
岸岳の窯場にいた多くの陶工達も逃散し、『岸岳崩れ』と呼ばれます。彼らは南波多の櫨(はぜ)の谷や大川などに逃れ窯を開きました。三川内に初めて焼き物窯の煙が立ち登ったのも、岸岳崩れの陶工が移住してきたこの頃であると考えられております。
文禄・慶長の役では、各大名が朝鮮から多数の陶工を連れて帰りました。この陶工たちが日本の焼き物を大きく変えることになります。『白手(しろて)』と云われる白磁の焼成に成功するのです。
『高麗媼』は、このころ渡来し、伊万里の『椎ノ峰』に入ったものと思われます。高麗媼は、今村氏の始祖となった『巨関(きょかん)』と同じ朝鮮の熊川(こもかい)の出身で、椎ノ峰の陶工『中里茂右衛門(もえもん)』の妻となって中里 と称しております。
夫の死後、 は一子『茂右衛門』をつれ岸岳崩れの陶工をたよって三川内にやって来て、長葉山(ながはやま)に開窯したと云われております。元和(げんな)八年(一六二二)頃のことです。
は製陶の技術に優れ、陶工達をよく指導したので尊敬を込めて『高麗媼』と呼ばれました。
後に長葉山には藩の製陶所が開かれておりますが、こうした基礎があったからでもあります。三川内山に御細工所が開設されるまでの約三十年ばかり、長葉山の藩窯の時代が続くことになります。
は今村三之丞や、弥次兵衛(如猿)等と協力して三川内焼を大成させることとなります。子の茂右衛門は御用窯の窯焼方に任用されました。
は三川内の中里家一統の祖先となり、釜山大明神の祭神として祀られております。三川内焼に関する旧記の中に「『焼物釜の神をニム子(ね)明神』と称し、この神を高麗人の老女が守っている」との文がありますが、この老女は、『高麗媼』であったと思われます。寛文十二年(一六七二)に百四歳であると記しております。
澤 正明/写真説明 三川内山天満宮の右下手にある釜山神社
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