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国見山を源流にした相浦川流域の里美村・柚木村・大野村・皆瀬村・中里村・大里村(後の山口村)の六ヶ村を合わせ江戸時代には相神浦村と呼んでおります。
慶長九年(一六〇四)平戸藩主が徳川幕府に届け出た相神浦村の石高は六千八百八十一石で、平戸藩の石高六万三千二百石の一割をこえる大きな村でした。
相浦谷は平安時代の中頃『しらしらの別当・武辺胤明』が開拓したと言い伝えられております。竹辺町の『大宮姫神社』は胤明が工事の安泰を願い豊玉姫命を祭神とし勧請したお社です。
平安時代の末期に松浦氏の祖となる『源久』が松浦市の今福に下向したとされております。相浦氏系図によれば、伯父の久に従って甥の『篤』が下向し、相神浦氏を名乗りこの周辺を治めたとしております。相神浦氏の始まりです。
その後一族間に不和が生じ合戦となったので相神浦氏は治承三年(一一七九)相神浦を去り、多久(佐賀県多久市)に移住したと記しております。
松浦家の記録にある松浦氏の本流の『松浦清』が相神浦に進出して来た時期と一致します。穀倉地帯であるこの地の支配を宗家松浦氏が目指したものでしょう。
多久に移住した相神浦氏は領地を「相神浦」と名付け、相神浦から飯盛権現を勧請して宗廟としており、今も立派なお社を見ることが出来ます。
勧請した飯盛権現の元宮は小野町の熊野神社の地にあったと考えられます。飯盛権現は永禄八年(一五六五)に宗家松浦氏が平戸の軍門に下ったときに愛宕山の中腹に遷されており、小野には分霊を残し、お祀りしたのが熊野神社です。
多久に移った相神浦氏は多久氏と姻戚関係となり、重臣として仕えております。北肥戦誌などの史書にも相神浦氏の活躍が記されております。後に『相浦』と姓を改めており、佐賀に移り鍋島氏に仕え、手柄をたてた家もあります。
相神浦氏の中で、当地に残っていたと考えられる人物が歴史に登場するのは鎌倉時代のことで、恩賞を受けた記録や、裁判の証人になった記録の中にその名前を見ることが出来ます。しかしその後、相神浦氏が当地の歴史に登場することはありません。
澤 正明/写真説明 小野町にある熊野神社
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