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日本には29万余種の名字があり、その80%は地名に対応すると云われております。中世の武士の多くは自分が支配する領地の地名を名字にしており、一族の移動などにより移り住んだ新天地にも自己の名字と同じ地名をつけている場合が数多く見受けられます。
佐世保の地名の由来ははっきりしませんが、佐世保を支配する「佐世保氏」が居たことは文献にも残っており確実です。佐世保の地名の由来・佐世保氏の出自について私見を記してみます。
私は佐世保の地名が発祥したのは松浦市の御厨(みくりや)であり、平安時代にそこを開拓し支配していた「佐世保氏」が鎌倉時代の初期に御厨を離れ佐世保の地に移り住みこの地を佐世保と名付け、佐世保を氏としたと考えております。
これは同じ時期の宗家松浦氏の相神浦(あいこのうら)進出に関連があると思っています。
佐世保を冠した地名が松浦市御厨の竜尾川流域にあります。『御厨町横久保免字佐世保田代』と『星鹿(ほしか)町牟田免字佐世保崎』です。『田代』は開拓地に特有の地名であり、佐世保崎は海に突き出た丘陵地ですが、周辺を見渡せば開拓が行われた様子が窺われます。
佐世保氏が始めて歴史に登場するのは南北朝の貞治元年(一三六二)の『彼杵庄(そのぎのしょう)一揆連判状』にある『佐世保源三郎源清』です。
彼杵郡の国人が、足利尊氏に忠誠を誓ったのが連判状で32名の名前があります。佐世保氏は、源の姓と一字諱(いみな)から見て松浦氏の一族であったようです。
また、松浦郡にあっても永徳四年(一三八四)の松浦党の一揆契諾書があり、その中に『させほ石見守(いわみのかみ)』『させほのいまふく左京亮(さきょうのすけ)』の署名があり、佐世保の国人の存在が確認できます。
次に佐世保氏が歴史に登場するのは、戦国時代の『佐世保諫(いさむ)』です。明応七年(一四九八)大智庵城(だいちあんじょう)で悲運の最期を遂げた『松浦丹後守政』の弟で、諫は佐世保を統治していたとされています。
領主の弟にもかかわらず平戸方に攻められた様子はありません。諫の室は平戸の興信(おきのぶ)の妹であり、平戸と通じていたのではないかと思われます。
その後に佐世保氏が歴史に登場することはありません。佐世保氏の後は『赤崎氏』に引き継がれたものと考えられます。
澤 正明/写真説明:赤崎伊豫守(いよのかみ)が開基となった西方寺
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