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佐世保や北松浦郡の炭坑の歴史を見るときに、賤津浦(相浦)の斉藤松五郎を忘れることはできません。
松五郎は江戸時代の中期に活躍した人です。『させほの歩み』の中に
「相浦で手広く塩の商いをしていた塩屋松五郎は、主に瀬戸内海に開かれた塩田の塩水を煮詰めるために石炭の需要が増加していることに目をつけ、藩庁の許しを得て、小佐々町の大瀬・長浦に石炭山を開き、成功をおさめた。藩からも格式を与えられ斉藤松五郎と名乗った。
しかし、成功を妬んだ人の讒言により外国船に石炭を売って密貿易をしているとの嫌疑がかけられ、文政十年(一八二七)十二月死罪になった。
この時、松五郎の子の五兵衛は平戸を抜け出し京都へ行き『伊達五兵衛政則』と名乗っていたが、縁があって大村藩に召し抱えられ勘定役になった。後に五兵衛は元の斉藤の姓に返り長崎に出て伊勢五という屋号で商売をしていた。
その後松五郎の罪は晴れ、五兵衛は大瀬・長浦に石炭山をひらいて父の業をついだ。この五兵衛が天保十三年(一八四二)大村藩の疑獄事件の罪を背負って、打ち首になると云う事件が起こった。大村藩に召し抱えられてもらった恩返しに、藩の責任を一身に背負ったものと云い伝えられている。」
とあります。
相浦の金照寺の過去帳に松五郎の法名は『鶴道院釋了意』文政十年十二月二十日とあります。松五郎の墓は発見できませんが、子の伊達五兵衛政則の墓は相浦にあります。『天保十三年壬寅十月初九日 斉藤松五郎辰吉伜 世寿三十八歳 俗名伊達五兵衛政則』と墓石にあります。
また、松五郎の四男も同じ石塔に、『大村藩 伊達宗左衛門正宗』と刻んであり、兄弟ともに伊達の姓を名乗っていたことがわかります。
斉藤の名跡を継いだのは五兵衛政則の子であり、名前も松五郎と名乗ったと考えられます。
相浦の飯盛神社にある『飯盛大権現』の額面に、奉納した斉藤松五郎ほか二名の名前が記されております。万延元年(一八六○)庚申四月の日付です。神社に社名額を上げる事の出来る財力と地位が備わっていたのでしょう。
この松五郎は明治十二年(一八七九)に亡くなっております。法名は『快楽院釋浄友』です。
澤 正明/写真説明:松五郎らが奉納した飯盛大権現の額面
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