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草刈太一左衛門重光は、大潟新田を造った人として有名です。太一左衛門は文化四年(一八○七)に大野で生まれており、幼名は原蔵といいます。長じて父の弥平と共に石炭の採掘に乗り出し、四十余りの鉱区と帆船十有余隻を有するようになり、巨万の富を得ております。
石炭業で蓄積した資本をもとに新田の開発に着手し、まず、真申新田二十ヘクタールを埋築しております。
安政二年には大潟新田の埋築許可を平戸藩に願い出ており、当時の御家老日記に『相神浦山口懸大潟という処に、新田になると思われる七八十町歩の場所があります。土肥の長さ千間余り、その内四百間ばかりは荒波をうける処で、難工事は覚悟しております。国益の為に干拓の許可をお願いします』と願い出た文書が記録されております。
安政四年(一八五七)に新田埋築工事を着工、八年の歳月を要した工事も慶応元年(一八六五)に完成し、時の領主松浦詮公を迎え潮止式をおこなっており、七十ヘクタールに及ぶ干拓地が完成しております。
中里町の東漸寺は開山一千年を超える真言宗の古刹で、天然記念物の大楠や、文化財指定の『魔鏡』があります。
草刈家はこの寺に帰依しており、文久四年(一八六四)に太一左衛門他一名で奉納した金剛杵、金剛鈴があります。
金剛杵、金剛鈴は、真言宗の寺院では一番大切な法具です。安政四年に始めた大潟新田の埋築の工事も、文久四年頃は工事の山場を迎えた時期と考えられます。法具を新調し、工事が滞りなく進むよう仏の加護を念じ、息災の祈願を行ったと私は想像しております。
明治二年(一八六九)六月に『この度平戸の城下に住まうことになりました。盆や正月、祥月命日など時々にはお参りしますが、遠隔地のために行き届かないことも有ると思います。今年より永代にわたり毎年米二俵を差し上げる事を約束します。日々の霊膳にあててください』との趣旨の證札を東漸寺に差入れております。太一左衛門の律儀な一面がよく表れております。
現在は陸上自衛隊相浦駐屯地となっている大潟新田の堤防に立ってみると築堤の壮大さに驚くとともに、困難な工事であったことがよくわかります。
澤 正明/写真説明:草刈家が帰依した東漸寺
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