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平安時代に相浦谷を開拓したとされている『しらしらの別当・武辺胤明』については史料が乏しくはっきり分かりませんが、架空の人ではないようです。
相浦の洪徳寺に、歴代の和尚の実績を書いた「当山世牌記」がありますが、『十二世 蜜道補線大和尚』の記録の中に「志羅志羅別当胤明と云う仁は壱州の多奈川神社より来る仁」との記述があります。「多奈川神社」とは、郷ノ浦町の壱岐国の一ノ宮である「天手長男神社」のことで、「延喜式神名帳」にも記載があり、律令制の時代には、壱岐では最上位の神社です。
余談になりますが、平戸の国学者『橘三喜』は、二十三年をかけ全国の一ノ宮を巡り、神楽の粋をあつめて平戸神楽を作っております。その橘三喜が延宝四年(一六五一)壱岐の一ノ宮「天手長男神社」を訪れた時には神社は寂れていたようです。
そのとき境内の経塚を発掘し、滑石製の仏像を発見しております。仏像の底をくりぬいて経筒としたものであったと「一宮巡詣記」に記しております。その経筒「石造弥勒如来座像」は延久二年(一○七一)の年号と銘文があり、今は国指定重要文化財となっております。
「天手長男神社は創立以来の神職は、一家の継襲にあらず」と記録にあり、箱崎八幡宮などから神職が赴任しておりますが、在任の期間は案外短かったようです。胤明もその転勤神職(?)の一人ではなかったろうかと推測しております。
時代は下がりますが、享保十三年(一七二八)ころに相神浦の『堤権之進』が祠官となった記録があります。以上の事から推し量ると、言い伝えにあるように『胤明』が武辺の「大宮姫神社」の神職としてこの地に来たことは十分考えられます。胤明の出自が気になるところですが、記載した文書は見あたりません。
浩徳寺世牌記には胤明の廟所のことが書かれておりますが、現在の木宮神社の場所とは別の所のようです。胤明が神として、木宮神社に合祀されたのは、明治維新の神仏分離令が発せられた時期と考えられます。
写真説明
胤明が神として祀られている木宮神社。
澤 正明/写真説明:相浦谷開拓のお祝いがされたいうと言い伝えがある祝詞神社(田原町)
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