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風光明媚な九十九島も藩政時代にはあまり人々に知られていなかったようです。平戸藩の第三十五代藩主、観中公(熈)は、領内の景勝地を選んで京都の画家『澤渡広繁』に描かせ『平戸領地方八奇勝図』と名付け刊行しております。『地方』とは平戸藩領のうち九州本土のことで、佐世保市では眼鏡岩・巖谷宮(須佐神社)・福石観音・早岐瀬戸の潮の目が選ばれ、九十九島は入っておりません。箱庭的に美しい場所ばかりで、スケールの大きい九十九島の景色を愛ずることは思案の外のことであったようです。
いつの時期から『九十九島』と呼ばれていたかは興味のある問題です。文献がなくはっきりしませんが、戦国時代の終わり頃までは遡ることができます。九州全域の地誌として著名な『太宰管内志』に『大崎に信田殿屋敷とて広き屋敷の跡あり。かの大崎には文禄の頃、一部式部と云う者居城して九島の主たり』との記事があります。『信田』は現在の大潟町志田であり、『九島』は九十九島と考えられます。文禄の時期(一五九三頃)は相浦を併呑した平戸松浦氏がお目付役として生月の『一部式部』を送り込んでいたようで、大崎は海上交通の要衝であり、この海域の見張りをしていたと考えられます。『相浦』『高島』『黒島』『前津吉』を結んだ線は海上交通の重要なルートです。戦国時代の平戸方と相浦方との戦いの講和の使者も黒島便で平戸に行ったと松浦旧記『大曲記』は記しております。
はっきり九十九島として文献に名前が出てくるのは江戸時代の半ば以降のことです。平戸と長崎との間の船便が常設され、この船に乗った司馬江漢もここを通り九十九島の様子を書いております。
特筆すべき事は伊能忠敬の手による九十九島の測量です。文化九年(一八一三)一月四日から九十九島や高島・黒島を測量しており、島々の名前を地図にのこしてくれました。寒風吹きすさぶ中の測量の様子は測量日記に詳しく記されております。
▲写真は「船越展望台より大島・高島方面を望む
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澤 正明 |