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大国「ロシア」と国の命運をかけて戦った日露戦争から百年の歳月が経ちました。明治二十七年(一八九四)の日清戦争で勝利をおさめた我が国は、中国の遼東半島などを租借していました。しかし、ロシア・ドイツ・フランスの三国は遼東半島の還付をせまり、我が国は涙をのんで受け入れました。世に云う三国干渉です。
その後ロシアは満州に進出、遼東半島の旅順、大連を租借、さらに朝鮮にも手を伸ばしはじめました。
この横暴に日本は「臥薪嘗胆」の合い言葉で堪え忍び、ロシアの脅威に対抗するため陸海軍の充実に努めました。
ついに明治三十七年(一九〇四)二月六日、ロシアと戦端を開くことになりました。
日野の村総代「田渕原吉」は、二月二十二日の日記に慌ただしい様子をこう記しております。
『ロシヤ(と)大戦(おおいくさ)はじめ、大谷砲台(には)およそ陸軍三百人詰め(た)。
日野七十人、相浦三百人、日野・相浦に来たとは(来たのは)湯入り。
大村より支那に送り、軍港見送り。見舞軍事公債金、四月より十一月まで。金二十五円原吉申し込み』
大谷砲台とは牽牛崎にある陸軍砲台であり、日清戦争のときに仮砲台として使用しております。日露間の戦争が必至とみで道路を造り、明治三十六年忌は砲台が完成、その砲台に三百人あまりの兵隊が詰めていたようです。
また、「風呂入りに兵隊が日野や相浦に来た」と原吉は記しております。大勢の兵隊が一度に佐世保に集結したために、風呂場が不足したとみえます。田舎では内湯は少なく、共同風呂でした。そこを使用したのでしょう。
大村の歩兵四十六連隊と福岡二十四連隊からなる木越旅団の将兵は早岐に集結し、早岐の勝磯より団平船で佐世保港内に送られております。連合艦隊と共に輸送船で征途につく将兵を多くの人々が港に集まり見送っております。
国は戦費を賄うために、国債を発行しており、佐世保市への割り当ては六十一万円でした。市長は町総代などを通じて割り当てを行い消化につとめており、募集成績は王々でした。原吉も金二十五円を申し込んだと書いております。今の貨幣価値に直せば、三十万円くらいでしょう。
▲写真は「牽牛崎の陸軍砲台跡
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澤 正明
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