器の種類
丸6寸皿(直径18cm)
湯呑み(蓋無し)
マグカップ

1種類
1種類
料金
 料金はその都度お問合せ下さい。
予約
 10名以下は当日でも可能ですが、10名以上につきましては予約が必要です。
 ※最大実施可能員数200名
完成までの要日数
 10〜15日

鉛筆による下描き
絵具(呉須絵具)による本描き
会場での実技風景
   
 絵の構図が決まったら、まず鉛筆で図案の
 下描きをする。
  (注)鉛筆ではできるだけうすく描くこと。
 直接呉須絵具で描いても好い。
    鉛筆で下描きした図案を絵筆をもって呉須絵具で絵を描き仕上げる。
(注)呉須で線描きや濃淡(濃み)を施す場合には、できるだけ一回ですること。
(呉須を重ねると焦げたり、はげたりする場合があります。)
     実施日、氏名と学校名等を呉須で書く。



400年の歴史を誇る三川内焼
 豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を、別名焼物戦争ともいいます。この時、各地の大名達は秀吉に命じられ、競って朝鮮の陶工を連れ帰りました。二十六代平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)が慶長三年(1598)に連れ帰った陶工の一人巨関(こせき)は、藩主の命を受け平戸・中野で最初の窯入れをしました。これが中野窯で三川内焼の始まりです。しかし、良い陶石に恵まれなかったため、巨関と息子の今村三之丞は、平戸領内を陶石探索の旅に出て最初に落ちついた所が三川内だったのです。
三川内三皿山の誕生
 二十八代平戸藩主松浦隆信は三之丞に三川内山に藩用の製陶所を開くことを命じました。寛永十五年(1638)二十九代藩主松浦鎮信は三之丞を皿山棟梁兼代官に任じ、寛永二十年(1643)には、皿山役所の出張所を木原山と江永山に設けました。それが三川内三皿山の起こりです。
世界に愛された三川内焼
 南蛮交易で財政が豊かであった平戸藩は、長崎出島にオランダ商館が移動したため交易の利を失いました。そこで藩の奨励により、御用窯が年と共に盛大になると、藩は販路を海外に求め、輸出用陶磁器の開発に努め、薄手のコーヒー茶碗等が開発されました。文化元年(1804)にはオランダや中国に輸出し、海外の王侯貴族に愛されました。

三川内焼の新たな出発

 明治維新を迎え、三川内皿山も遂に民窯に転じざるをえなくなりました。しかし、地元の人達の努力により、御用窯の技術は現在に受け継がれ、佐世保市唯一の国の伝統的工芸品に指定されています。現在は40弱の窯元が400年の伝統に、現代的な感覚を加味した器づくりを行っています。

純白の白さを誇る白磁
 世界に誇る「三川内焼」の白磁は熊本産の天草陶石と佐世保・針尾島の網代(あじろ)陶石を用いて、焼成に成功したのが始まりです。
 以来、三川内焼は、きめ細かい磁肌とその白磁に映える繊細優美(せんさいゆうび)な染付け、透し彫りなどの細工物、高温で焼成した珠のような輝きが三川内焼の特徴です。
匠の技が冴える透し彫り
 透し彫りは極めて高度な技術を必要とし、その歩留りも低いため、五重の塔や飾り香炉などの大物は、優れた技術と時間を度外視した藩窯でなくてはとても成えない焼物でした。
 この成功緻密(せいこうちみつ)な透し彫り技術は現代に受け継がれ、三川内焼陶工の上物づくりの精神が支えて、すばらしい製品を生み出しています。
三川内を代表する唐子絵
 三川内焼の代表的な絵柄である手描きの唐子絵。江戸時代、平戸藩御用窯の指定図柄として、三川内山以外の窯では焼くことができませんでした。「献上唐子(けんじょうからこ)」といわれ、松の木の下で無心に蝶とたわむれる唐の子供が描かれており、朝廷や将軍家への献上品、諸大名への贈り物に使用されていました。



 
お問合せ先
三川内焼美術館
(三川内焼伝統産業会館内)
〒859-3135 佐世保市三川内本町343
TEL 0956-30-8080